タケヤみその歩み

信州に根ざし、
この地に伝わるみそづくりを
受け継ぎながら発展してきました。

信州のみそづくりこそ、
タケヤみその原点

 タケヤみそのある諏訪は、霧ヶ峰や北アルプスがもたらすきれいな⽔、信州の澄んだ空気といった⾃然環境に恵まれています。そして、寒暖差が⼤きい内陸性の気候により、みそづくりに適した微⽣物が多く育まれてきました。

 みそは、もともと自分たちの家で作るもの。春、桃の花が咲くころに、近所の家の人々が集まって、賑やかにみそづくりをしたといわれています。
 雪沓(ゆきぐつ)を履いた男たちが煮た大豆をつぶし、それを女たちが⼩さい⽟にして軒先などの風通しの良い場所につるしました。これは味噌⽟といわれ、自然の発酵菌を取り込むための工夫でした。その後、しばらくつるしてからこの味噌玉をくずし、塩と混ぜて桶に仕込み、各家庭に持ち帰りました。ところが、同じように仕込んだみそなのに、できあがると家ごとに味が違ったといいます。その理由は、それぞれの蔵に住んでいる微生物が違うため。これを「蔵ぐせ」といい、“自分の家のみそが一番うまい”というところから「手前みそ」という言葉も生まれました。
 今でも各地に特徴のあるみそが残っていますが、これらはこうした人々の暮らしの中で育まれてきたものなのです。

味噌たき

農家で毎年行われた「味噌たき」。とても大事な行事であった。

味噌玉

古来より伝わる「味噌玉」。昭和に入っても、引き続き作られていた。

タケヤみそが誇る、
150年を超える歴史

野屋

東京でタケヤみそを販売していた「藤野屋」。東京での発展の中心柱であった。

 タケヤみその創業は明治5年(1872年)。この年に「みそかんばん」を購入したという記録があることから創業年としていますが、実際にはその前からみそを販売していたという記録があるそうです。
 もっとも明治初期の信州では、みそは各家庭で作るのが当たり前。タケヤも、当時は米や炭の販売が本業でした。みそを買っていたのは、主に東京からやってきた役人さんだったとか。江戸(東京)では当時からみそを買うことが当たり前だったので、そういう方が最初のお客さんだったと伝えられています。
明治5年の「大宝恵」

明治5年の「大宝恵」。みその店売りが記録されている。

 文明開化の波は信州にも訪れ、みそを買う人も増えて、明治末期には上諏訪町(当時)だけで10軒の味噌屋があったとか。そして、大正12年(1923年)に発生した関東大震災が、タケヤみその運命を大きく変えることになります。すでに鉄道が整備されていた諏訪から、救援物資として⼤量のみそを東京へ発送。そのみその評判がとても良かったことから、本格的に東京、そして県外への販売が始まりました。販売拡⼤に対応するべく、昭和に入ってから現在の諏訪⼯場を建設し、昭和14年(1939年)にみそ専業メーカーとなったのです。

 戦後、「株式会社竹屋」となったタケヤみそは、いち早く時代の変化に対応。スーパーマーケットの登場に合わせて袋入りのみそを発売、テレビCMなどの広告も積極的に展開するなど、順調に販路を拡大していきました。昭和45年(1970年)には松本⼯場も完成し、生産能力をさらに増強。「ひと味ちがう」タケヤみそとして、多くの人に親しまれる存在になりました。
6番倉

昭和11年、六番蔵建設の様子。昭和5年から毎年のように蔵が建てられた。

タケヤ味噌会館

タケヤ味噌会館

諏訪湖のほとり、タケヤみそ諏訪工場に隣接する情報発信基地。ここでしか買えないオリジナル商品を多数発売しているほか、多くの展示物を通じて諏訪古来のみそづくりに触れることができます。
タケヤ味噌会館
連続テレビ小説『かりん』小道具

連続テレビ小説『かりん』

平成5年10⽉〜平成6年3⽉に放映されたNHK朝の連続ドラマ。信州諏訪の⽼舗みそ屋の一人娘が、戦後の新しい時代を生き抜いていく姿が描かれました。タケヤみそは味噌技術指導として番組に全面協力。当時のみそづくりの考証を担当したほか、⼩道具も貸し出しました。

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