どうして味噌屋なのに「タケヤ(竹屋)」なの?

 新年あけましておめでとうございます。
 新しい年をどのように迎えられましたか? ご家族だんらんの時間を過ごしている方も多くいらっしゃると思います。タケヤみそは、今年も家族の笑顔に囲まれた食卓を応援します。

 ところで、私たちは「タケヤみそ」として商売をしていますが、どうして「味噌屋」なのに「タケヤ」(会社名は「竹屋」)なのでしょうか? お正月は原点を振りかえるいいチャンスですので、今年はこのお話をしたいと思います。
 私たちが味噌の販売を始めたのは明治になってからです。それ以前は何をしていたのか、というところに、この疑問を解くヒントがありそうですから、まずはそのあたりから。

 江戸時代、信州諏訪には腕の良い目医者がいました。甲州街道筋に住んでいたこの目医者のところには、その名声を聞いて多くの患者さんが集まったと伝えられています。信州からはもとより、甲州(山梨県)や駿河(静岡県)、さらには越後(新潟県)、尾張(愛知県)などからも治療に訪れたそうです。
 当時のことですから、こうした遠くからのお客様は日帰りなどできません。せっかく諏訪まで来たのですから、ここで宿泊することになります。また、長期療養が必要な患者さんのために、入院病棟のようなものも必要でした。

 実は、こうした需要に対応するための旅館業および入院病棟経営が、タケヤのもともとの仕事だったのです。江戸時代末期の資料によると、年間2,000人から、多い年には4,000人近いお客様がいらっしゃったとのこと。当時の地図によると敷地面積も他の家より広く、かなり繁盛していたようです。
 残された帳簿を見てみると、酒、醤油、酢などは購入の記録があるのですが、「味噌を買った」とはどこにも書いてありません。どうやら自分たちで食べる分だけでなく、お客様に出す味噌についても、自分で作っていたようなのです。味噌メーカーとしてのルーツがここにあり、ある程度の大量生産のノウハウも身に付けていたと思われます。

 ところが、明治の時代になってすぐ、新政府は「今後は、医師の免状がない者は医療行為をしてはならない」というお触れを出しました。さすがのこの名医も、やむを得ず廃業という決断をしたのです。
 このため、転業を余儀なくされた八代当主の竹屋傳右衛門政治は、人々が毎日必要とするものを商売にしようと考え、米穀薪炭商を始めます。そして明治5年に「みそかんばん」を出し、旅館時代の経験を活かして味噌の商売を始めたというわけです。
 もっとも、当時の信州では味噌は自分の家で作るのが当たり前。味噌はなかなか商売にはなりませんでした(このあたりの事情は「諏訪古来のみそづくり」でご紹介しています)。味噌が本業として発達するのは、関東大震災以降のことになります。

 さて、それでどうして「タケヤ」なのか、というお話。実は、上記の目医者の名前は「竹内新八(たけのうち・しんぱち)」といいます。どうやら、この目医者さんの名前から、竹屋という店名が生まれたようです。名医竹内の眼病人宿としての活動の中から味噌作りが始まったわけですから、ルーツを表していると言えるかもしれません。

 転業したばかりのタケヤが「みそかんばん」を掲げてから、131回目の正月を迎えました。「人々が毎日必要とするもの」を大切に作る姿勢を忘れず、安全でよりおいしいみそづくりに努力していきたいと思います。
 本年もタケヤみそをどうぞよろしくお願いいたします。

 今年もおみそがおいしい年でありますように・・・

(2003年1月)


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